1953-02-04 第15回国会 衆議院 法務委員会 第19号
まず、岡組から申しますと、これは昭和二十年の八月ごろに結成されまして、事務所は広島市猿猴橋町三十八番地、主要なメンバーとしまして、親分は先ほどの岡敏夫、主要な子分といたしましては、網野光三郎ということになつておるのでありますが、この親分の岡敏夫は広島市内に生れまして、昭和十年ごろに当時大阪に在住の親分の天本菊美の子分となりまして、いわゆる遊び人仲間に身を投じていたのでありますが、広島に帰つた後、昭和二十年
まず、岡組から申しますと、これは昭和二十年の八月ごろに結成されまして、事務所は広島市猿猴橋町三十八番地、主要なメンバーとしまして、親分は先ほどの岡敏夫、主要な子分といたしましては、網野光三郎ということになつておるのでありますが、この親分の岡敏夫は広島市内に生れまして、昭和十年ごろに当時大阪に在住の親分の天本菊美の子分となりまして、いわゆる遊び人仲間に身を投じていたのでありますが、広島に帰つた後、昭和二十年
萩島一派の暴力行爲の犯罪事実によりますと、萩島喬は二十三歳の頃から大牟田市の親分である中熊某の子分となり遊び人仲間に身を投じ、その後傷害、恐喝、横領、賭博罪等で数回処罰せられたことがあり、昭和十七年九月頃から大牟田市内で土木建築請負業を始め、爾來相当数の子分を持ち、漸次親分として重きを加え、昭和二十年末頃山門郡柳河町隅町に轉居した後は柳河地方での親分として相当の勢威を張つており、他面昭和二十二年四月三十日町会議員